砥部焼協同組合
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 砥部焼の歴史 後編

年表

 

〜絶え間なく続く技術革新〜
そして改めて見直される、砥部焼の手作りの味わい

■ 砥部焼の技術革新 ■

白磁器焼成の成功の後も、絶え間なく技術が改良されてゆきます。
釉薬はこれまで筑前から取り寄せていましたが、杉野丈助は三秋(伊予市)で釉薬の原料石を発見しました。これまでのように、釉薬を遠方から取り寄せる必要がなくなり安定した釉薬の供給ができるようになりました。
また、文政元年(1818年)、五本松の向井源治は「川登陶石」を発見しました。これまでのやや灰色がかった磁器から、より白い磁器を作ることが可能になり、砥部焼の7割が海外に輸出されるようになり、販売が増えました。
また、亀屋倉蔵は、大洲藩の命により肥前で錦絵の技法を学びました。
このように、様々な点での砥部焼の技術革新が進められました。

■ 世界に羽ばたく砥部焼 ■

明治以降、砥部焼は中国等の外国に「伊予ボール」の名で輸出されるようになりました。
そして、向井和平が製作した「淡黄磁」が、明治26年にシカゴ博覧会で1等賞を受賞。砥部焼の名は世界に知られるようになり、大正に入ると、砥部焼の輸出比率が7割を超えるようになりました。

■ 不況期そして再興 ■

大正末期から昭和の初めの不況により、砥部焼の生産や販売は落ち込みました。一方で瀬戸や美濃といった先進地域では、石炭を使った倒焔式の窯や機械ロクロや石膏型、また絵付けでの毛筆から銅板印刷へと新しい技術が導入されていました。砥部はこのような近代化の波から、一見取り残されたかに見えました。
しかし戦後になり、砥部焼が持つ手作りの良さが改めて評価されることになります。
昭和28年、民芸運動の推進者柳宗悦、バーナード・リーチ、浜田庄司らが砥部を訪れ、機械化されている他の産地に比べ、手仕事の技術が残っていることを高く評価しました。
また、昭和31年には陶芸家の富本憲吉(文化勲章受賞)も訪れ、砥部焼の近代的デザインを後押しします。
それに刺激され、若手陶工を中心に手作りの良さを生かすべく、ロクロや絵付け等の技法向上に取り組みます。研究会を作ったり展示会を開いたりして、腕を磨きました。
 

■ 現代の砥部焼 ■

砥部焼は昭和51年に、陶器の世界では全国6番目に、「伝統的工芸品産地」として指定されました。
伝統的な砥部焼の技法は、今も受け継がれていますが、最近では、女性や若手陶工の手による伝統的な技法にこだわらないモダンで新鮮な作品も多くなっています。
砥部焼の魅力としては何よりも手作りで使い勝手が良いこと、また値段が手ごろで厚手に仕上げられた堅牢性が日常使用に適していることがあげられます。
これからも砥部という地から、手作りの良さを受け継ぎ、窯元の個性を生かした、使う人のニーズに合った焼き物が次々と送り出されてゆくことでしょう。

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<川登陶石>