砥部焼年表



年 代

事     項

6〜7世紀

このころ砥部で須恵器の生産が行われる。
大下田(おおげた)第1号/弟2号古墳 
○「子持高杯」7個の小さな蓋付杯が器台に乗っている。
  ※国指定文化財(S43.3.15指定:国立歴史民族博物館収蔵)

747
天平19年

『正倉院文書』に「伊予砥」が税として課徴されたことが記載。

927
延長 5年

『延喜式』に「伊予砥」が税として課徴されたことが記載。

1775
安永 4年

大洲藩主・加藤泰候が砥石のくずを使った磁器創業を加藤三郎兵衛光敏に命じる。
門田金治(麻生)に砥石のくずを使った陶器生産の創業を、杉野丈助(原町)に焼成の監督が任ぜられる。

杉野丈助、五本松に登窯を築く(上原窯)。

上原窯にて第1回磁器焼成するが失敗。そのため肥前から呼び寄せた5人の陶工は帰国。

1776
安永 5年

第2回焼成失敗。

筑前・上須恵窯から砥部に移住していた信吉が、焼成失敗の原因は釉薬の不良であることを杉野丈助に告げる。

1777
安永 6年

杉野丈助が筑前に行き、権助から釉石と釉薬を購入。

杉野丈助、新釉薬を使い磁器焼成に成功。(砥部焼のはじまり)

杉野丈助、三秋(現伊予市)で釉薬の原料石を発見。釉薬の自給が可能となる。

大洲藩が経営していた上原窯を門田金治が譲り受ける。

1818
文政 元年

向井源治、川登陶石を発見。

1825
文政 8年

亀屋庫蔵が大洲藩の命により、肥前から錦手磁器を伝習。

1839
天保10年

栄蔵、類助らが絵薬を求めて長崎にゆく。

1848
嘉永 元年

井岡太蔵、トンバリ(レンガ)を使った窯を作る。

1851
嘉永 4年

城戸源六、素焼窯を考案。

川登の坪内庄太郎が大洲藩の認可を得て、太鼓水車を使った陶石の粉砕業を始める。

1853
嘉永 7年

坪内家の水車帳に17の窯元を記載。

1857
安政 4年

瀬戸物役所、唐津役所できる。

このころ、全国に磁器窯が作られ、磁器が庶民生活の中に広まる。

1878
明治11年

伊藤五松斎、九州から陶工を招き型絵染付を広める。

伊達幸太郎、京都で西洋彩画を学ぶ。

1885
明治18年

砥部焼、清国(今の中国)に輸出。

1888
明治21年

「下浮穴・伊予両郡陶磁器同業組合」(現砥部焼協同組合の前身)を設立。

1890
明治23年

向井和平、淡黄磁を創始。

1893
明治26年

淡黄磁、シカゴ世界博で一等賞を受賞。

1903
明治36年

重要物産同業組合法が公布され、輸出に力を入れる為、「下浮穴・伊予両郡陶磁器同業組合」を「伊予陶磁器同業組合」に改組。

1906
明治39年

陶器補習学校できる。

1930
昭和 5年

「砥部焼陶友会」発足。

1934
昭和 9年

工業組合法の施工によって「伊予陶磁器同業組合」を「伊予陶磁器工業組合に」に改組、組合の地域を県全域に広め事業強化を行った。

1942
昭和17年

杉野丈助の功績をたたえて陶祖ヶ丘に記念碑を建立。

1944
昭和19年

商工組合の規定に従って、「伊予陶磁器工業組合」を「伊予陶磁器工業統制組合」に移行。

1947
昭和22年

商工協同組合法の公布に従って「伊予陶磁器工業統制組合」を「伊予陶磁器工業協同組合」に改組。

1949
昭和24年

中小企業協同組合法によって「伊予陶磁器工業協同組合」を「伊予陶磁器協同組合」に改組。

1953
昭和28年

柳宗悦、バーナード・リーチ、浜田庄司など、指導のため砥部を訪れる。
他産地に比べ、砥部焼には手仕事の技術が残っていることを高く評価。

1956
昭和31年

陶芸家・富本憲吉、陶芸指導のため砥部を訪れる。
砥部焼の近代的デザインを後押しする。

1959
昭和34年

「砥部焼陶友会」が解散。「砥部焼陶和会」設立。

1976
昭和51年

砥部焼、国の伝統的工芸品に指定される。

1977
昭和52年

砥部磁器業200年祭を行う。

1984
昭和59年

『砥部焼まつり』はじまる。

1989
平成 元年

砥部焼伝統産業会館できる。

1995
平成 7年

砥部焼の地球儀が国連欧州本部に設置される。

2003
平成15年

将来にわたり砥部焼業界を束ねていく為、「伊予陶磁器協同組合」を「砥部焼協同組合」に改名。